パール・バックはどんな人物?
人物名 | パール・サイデンストリッカー・バック |
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英語名 | Pearl Sydenstricker Buck |
生年月日 | 1892年6月26日 |
没年月日 | 1973年3月6日 |
享年 | 80歳 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 | 小説家 |
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- パール・サイデンストリッカー・バックは、アメリカの小説家であり、人道主義者です。彼女は米国ウェスト・バージニア州で生まれ、生後3か月で宣教師の両親と共に中国・江蘇省鎮江に渡り、英語と中国語のバイリンガルとして育ちました。幼少期を中国で過ごした彼女は、自身を中国人と感じていたといいます。
1911年、アメリカに帰国し、ランドルフ・メイコン女子大学に入学、1914年に卒業しました。その後、母の病状悪化を受けて再び中国に戻り、1917年には農業経済学者で宣教師のジョン・ロッシング・バックと結婚。南京大学や南東大学で英文学を教える傍ら、執筆活動を開始しました。
1930年、処女作『東の風・西の風』を発表。翌1931年には代表作『大地』を刊行し、1932年にピューリッツァー賞を受賞しました。この作品は『息子たち』『分裂せる家』と続く三部作の第一作で、中国の農民の生活を描いたものです。1938年にはノーベル文学賞を受賞し、その功績が国際的に認められました。
しかし、同年のニューヨークでの講演が原因で、長老派伝道委員会から非難を受け、宣教師の職を辞任。1934年に中国を離れ、その後は二度と中国の地を踏むことはありませんでした。1935年には夫と離婚し、出版エージェントのリチャード・ウォルシュと再婚しています。
彼女の私生活では、最初の夫との間に知的障害を持つ娘キャロルを授かりました。その後、子どもを産めない体となったため、6人の孤児を養子として迎えています。さらに、リチャードと共に国際的な養子縁組機関「ウェルカム・ハウス」を設立し、人種を問わない養子縁組を推進しました。また、米国人とアジア人の混血児の教育支援を目的とした「パール・バック財団」も設立しています。
晩年はヴァーモント州で隠遁生活を送り、1973年に80歳でその生涯を閉じました。彼女は生涯で80冊以上の著作を残し、中国の文化や人々を世界に紹介する架け橋となりました。また、障害を持つ子どもたちや混血児の支援など、人道的活動にも尽力し、その功績は今も多くの人々に称えられています。
パール・バックの名言一覧
1.
一人で生きようとする者は人として成功することはない。他人の心と通じなければ、心は枯れてしまう。自分の考えだけを聞き、他人からインスピレーションを得ることがなければ、心はしぼんでいくのだ。
– パール・バック -4237
2.
仕事の喜びの秘密は、「卓越」と言う言葉にある。何かうまくやる方法を知ることは、それを楽しむことである。
– パール・バック -4243
3.
ほんとうに心が傷つくのは、夢を奪われること。
– パール・バック -4241
4.
自分の中に、決して涸れることのない泉がある。
– パール・バック -4233
5.
子どもにキスをする母親もいれば、口やかましい母親もいる。しかし、これらは同じ愛情から出たもので、ほとんどの母親はキスもすれば口やかましくもする。
– パール・バック -4234
6.
私は気持ちが乗ってくるのを待ったりはしない。そんなことをしていては、あなたは何も成し遂げられない。とにかく仕事に取りかかるということを知らなければならない。
– パール・バック -4232
7.
行動するのです。世界的見地に立って、行動するのです。
– パール・バック -4242
8.
人間は年をとってはじめて、衝撃的なことでも愉しめる余裕をもてるのではないでしょうか。
– パール・バック -4230
9.
自分が無力だと考えないかぎり、人は誰も無力ではない。
– パール・バック -4240
10.
どんなことも、不可能と証明されるまでは可能である。そして不可能なことでさえ、今だけのことかもしれない。
– パール・バック -4229
11.
すべての大きな過ちにはいつも中間点となる瞬間がある。その過ちを取り消し、あるいは正すことのできる瞬間が。
– パール・バック -4236
12.
愛が死ぬのは、愛の成長が止まる、その瞬間である。
– パール・バック -4231
13.
仕事に喜びを見出すことは、若さの泉を発見することである。
– パール・バック -4235
14.
知らない人とは、これから知り合う人のこと。
– パール・バック -4238
15.
男は自分の知っているたった一人の女、つまり自分の妻を通して、女の世界全体をいい加減に判断している。
– パール・バック -4239