伊達政宗はどんな人物?
人物名 | 伊達政宗 |
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幼名 | 梵天丸 |
生年月日 | 1567年9月5日 |
没年月日 | 1636年6月27日 |
享年 | 69歳 |
国籍 | 日本 |
職業 | 武将、戦国大名 |
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- 伊達政宗(だて まさむね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、仙台藩の初代藩主です。
1567年、出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)で伊達輝宗と最上義姫の長男として生まれました。
幼名は梵天丸。幼少期に天然痘を患い、右目の視力を失ったことから「独眼竜」の異名で知られています。 1584年、18歳で伊達家の第17代当主となった政宗は、積極的な領土拡大を図りました。
特に1589年の摺上原の戦いでは、会津の蘆名氏を破り、東北地方における伊達氏の勢力を大きく拡大しました。
しかし、翌1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、政宗は当初態度を明確にせず、最終的に秀吉に従属する形となりました。
その後、政宗は豊臣政権下での地位を固め、1591年には岩出山城(現在の宮城県大崎市)に移り、領国経営に尽力しました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方し、戦後に仙台藩62万石の領主として仙台城を築城し、城下町の整備を進めました。
政宗は文化面でも優れた才能を発揮し、和歌や能楽に精通していました。
また、1613年には家臣の支倉常長を欧州に派遣し、ローマ教皇との交渉を試みるなど、国際的な視野も持ち合わせていました。
1636年、江戸で死去。享年70。墓所は仙台市の瑞鳳殿にあります。
政宗の遺志は、仙台藩の基盤として今も多くの人々に語り継がれています。
伊達政宗の名言一覧
1.
馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。
– 伊達政宗 -6788
2.
曇りなき、心の月を、先だてて、浮世の闇を、照してぞ行く、※ 辞世の句
– 伊達政宗 -6786
3.
物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。
– 伊達政宗 -6785
4.
今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
– 伊達政宗 -6792
5.
仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。
– 伊達政宗 -6794
6.
人がこの世へ生まれて百万長者も、最後に及んで要する所は、方六尺の穴一つ、戒名を刻んだ石碑一つで、家も、倉も、金も、地所も、妻も、子も、すべてを残して、死出の旅路をただ一人辿る。曾(かつ)て我が者と思ったもの、一として我に伴うはない。我は客人であったのである。
– 伊達政宗 -6791
7.
気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
– 伊達政宗 -6793
8.
仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
– 伊達政宗 -6790
9.
まともでない人間の相手をまともにすることはない。
– 伊達政宗 -6796
10.
朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
– 伊達政宗 -6787
11.
わきて釣りには他念なきものなり。太公望、おもしろがりたるも道理かな。罪も報(おくい)も後の世も忘れはてておもしろやと、げにさもあらずるものを。
– 伊達政宗 -6795
12.
大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。
– 伊達政宗 -6789