上杉謙信はどんな人物?
人物名 | 上杉謙信 |
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本名 | 藤原 輝虎 |
生年月日 | 1530年2月18日 |
没年月日 | 1578年4月19日 |
享年 | 49歳 |
国籍 | 日本 |
職業 | 武将、戦国大名 |
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- 上杉謙信は、戦国時代の越後国(現在の新潟県)を代表する武将であり、その卓越した軍事的才能と高潔な人格から「越後の龍」や「軍神」と称されました。
幼名を虎千代といい、父は越後守護代の長尾為景、母は栖吉城主・長尾房景の娘である虎御前です。
7歳のとき、春日山城下の林泉寺に入門し、名僧・天室光育のもとで厳しい禅の修行と文武の道を学びました。 14歳で元服し、長尾景虎と名乗った謙信は、栃尾城や三条城の城主として経験を積みました。
15歳の初陣では、近隣の武将たちの攻撃を見事に撃退し、その才能を示しました。
19歳で兄・晴景から家督を継承し、越後国の統一を果たします。その後、関東管領・上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲り受け、上杉政虎と改名。
さらに、室町幕府将軍・足利義輝から偏諱を受けて上杉輝虎と名乗り、最終的には法号である「謙信」を称しました。 謙信は、武田信玄との川中島の戦いや、北条氏康との関東出兵など、多くの戦いでその軍略を発揮しました。
特に、川中島の戦いは5度にわたり行われ、第四次川中島の戦いは最も激戦として知られています。
また、敵対する武田氏に塩を送ったという「敵に塩を送る」の逸話は、彼の義を重んじる姿勢を象徴しています。
一方で、謙信は生涯独身を貫き、領国経営にも力を注ぎました。
越後国内の産業振興や治水事業を推進し、領民からの信頼も厚かったと伝えられています。
また、仏教への信仰も深く、毘沙門天を篤く信奉し、自らをその化身と称することもありました。 1578年、謙信は春日山城で急死し、享年49でした。
その死後、上杉家では養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争い(御館の乱)が勃発し、家中は混乱に陥りました。しかし、謙信の遺した「義」を重んじる精神や卓越した軍略は、現在も多くの人々に語り継がれています。
上杉謙信の名言一覧
1.
人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならぬ。
– 上杉謙信 -8174
2.
大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。
– 上杉謙信 -8168
3.
我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。
– 上杉謙信 -8179
4.
戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。
– 上杉謙信 -8169
5.
昔時の名将は、暑日に扇をとらず、寒日に衣をかさねず、雨の日に笠を用いずして、士卒への礼とす。
– 上杉謙信 -8170
6.
我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。
– 上杉謙信 -8178
7.
四十九年、一睡の夢、一期の栄華、一盃の酒、※ 辞世の句
– 上杉謙信 -8176
8.
信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。
– 上杉謙信 -8175
9.
人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
– 上杉謙信 -8173
10.
極楽も、地獄も先は、有明の、月の心に、懸かる雲なし、※ 辞世の句
– 上杉謙信 -8177
11.
武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。
– 上杉謙信 -8167
12.
生を必する者は死し、死を必する者は生く。
– 上杉謙信 -8171